妻千代とともに成った一国一城の主
yamanouchi-kazutoyo


(やまのうちかずとよ)
●誕生:1545年(天文14年)(天文15年説あり)
●生誕地:尾張国 黒田
●父:山内盛豊
●母:  
●名:辰之助(幼名)、伊右衛門(猪右衛門とも)
●官名:従五位下、対馬守、従四位下、土佐守、贈従三位
●正室:千代(見性院)
●兄:山内十郎
●弟:山内康豊
●子:よね(天正大地震で死没)
●養子:湘南宗化、山内忠義(弟、山内康豊の子)
●ゆかりの地:
 若狭国 高浜城
 近江国 長浜城
 遠江国 掛川城
 土佐国 浦戸城
 土佐国 高知城
●略歴:
 ●尾張
1545年 (1歳)
岩倉織田家(信長と敵対していた)の家老で黒田城主の、山内盛豊の子として生まれる。
 ●父兄の死
1557年 (13歳)
兄の十郎が織田信長に攻められ討ち死に。
1559年 (15歳)
父、盛豊が信長に攻められ自害。
その後、尾張国、美濃国、近江国などの豪族に次々と仕える。
 ●秀吉の与力
1566年 (22歳)
尾張国で信長に仕え、木下(豊臣)秀吉の与力となる。
1570年 (26歳)
この頃、千代(見性院)と結婚。
金ヶ崎の退き口に従軍。
姉川の戦でも功をたてる。
1573年 (29歳)
朝倉攻めの際の刀禰坂の戦では、顔面に矢を受けながらも勇敢に戦う。
これらの功から、近江国唐国の領主に。(400石)
1581年 (37歳)
京都の馬揃えに、妻が嫁入りの際持参した支度金10両で買った馬に乗り参加し、注目を浴びる。
1583年 (39歳)
賤ヶ岳の戦に参陣。
1584年 (40歳)
小牧・長久手の戦に参陣。
 ●高浜城主
若狭国高浜城主に。(5千石)
 ●長浜城主
1585年 (41歳)
秀吉の甥、羽柴(豊臣)秀次の宿老に。
近江国長浜城主に。(2万石)
天正大地震で、娘よねを失う。
1590年 (46歳)
小田原城攻めに参陣。
 ●掛川城主
遠江国掛川城主に。(5万1千石)
1595年 (51歳)
秀次事件が起こるが、秀吉の命を受け秀次を取り調べた功績などから連座を免れる。
1600年 (56歳)
徳川家康の、会津上杉景勝征伐に参加。
 ●居城の提供
途上、石田三成挙兵の報に対しての小山会議では、「家人を全て連れて戦場に赴くので、不要になる掛川城は家康殿に提供する」と申しいれ、東海道を居城とする他の大名たちもこれにならう。
 ●土佐
関ヶ原の戦では目立った軍功はなかったが、居城の提供を真っ先に申し入れたことが家康から高く評価され、土佐国一国24万石を拝領し浦戸城に入城。
旧領主、長宗我部家の残党との確執には武断で応じる。
1603年 (59歳)
高知城を築城し、居城に。
嗣子がなかったことから、弟、山内康豊の子、山内忠義を養嗣子とする。
1605年 (61歳)
高知城で病死。
●死没:1605年11月1日(慶長10年9月20日) (享年61歳)
●レクイエム:
顔面に矢傷を追いながらも勇敢に戦ったというエピソードは、金ヶ崎の退き口の際であるとの説もある。
掛川城の提供申し入れという機転により、幕末まで続く土佐山内家繁栄の基を築いた。
妻千代の賢妻ぶりは、嫁入りの支度金10両を使って夫のために名馬を買ったエピソードなどで伝えられている。
千代紙の「千代」は、妻、千代にちなんだものという説がある。

(星野遊呆)