信長に茶道を教えた堺の商人
imai-soukyu

(いまいそうきゅう)
●誕生:1520年(永正17年)
●生誕地:大和国 今井
●父:今井氏高
●母:  
●名:久秀、納屋(屋号)、兼員、彦八郎、彦右衛門、昨夢庵寿林、宗久 
●官名:  
●正妻:武野紹鴎の娘
●子:今井宗薫など
●ゆかりの地:
 和泉国 大仙公園(宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」が移築されている)
●略歴:
●堺商人
1520年 (1歳)
佐々木源氏である、今井氏高の子として大和国で生まれる
その後、堺の商人納屋宗次に身を寄せる
その後、武野紹鴎の元で茶を学ぶ
その後、武野紹鴎に気に入られ、紹鴎の娘と結婚
1548年 (29歳)
硝石(火薬原料)を買い占めるなどで財を成す
1552年 (33歳)
鉄砲の生産を開始
1554年 (35歳)
大徳寺の塔頭、大僊院に170貫を寄進
1555年 (36歳)
武野紹鴎が死没すると、幼少の武野宗瓦を後見
その後、堺の会合衆の一員に
●信長との出会い
1568年 (49歳)
織田信長が上洛し堺の町に2万貫の矢銭を課した際、津田宗及とともに、反抗しようとする会合衆を説得。これにより、堺信長の茶頭を務めるなど重用されるように
将軍足利義昭から大蔵卿法印を拝受
●摂津代官
1569年 (50歳)
摂津国五カ庄の代官職を任せられる
1570年 (51歳)
但馬銀山(但馬国)の支配を任せられる
●鉄砲生産
この頃から、鉄砲の大量生産を手がける
1582年 (63歳)
織田信長が本能寺の変で没したあとは、豊臣秀吉(羽柴)の御咄衆に
しかし秀吉は宗久よりも千利休を重用
1587年 (68歳)
北野大茶会に協力
1593年 (74歳)
死没
●死没:1593年8月31日(文禄2年8月5日)(享年74歳)
●レクイエム:
上洛を果たした信長は、宗久から名物の松島の茶壺や紹鴎茄子を献上され、それがきっかけで茶の湯に夢中になっていった。
信長の台頭をいち早く確信し、終始協力を惜しまなかったことから重用され、大商人にのし上がった。
千利休、津田宗及とともに、茶の湯三大宗匠のひとり。
今井宗久茶湯書抜や今井宗久日記を著した。