伊作家から本家を継いだ島津の英主
simadu-takahisa

(しまづたかひさ)
●誕生:1514年5月25日(永正11年5月5日)
●生誕地:薩摩国 田布施
●父:実父:島津忠良(日新斎)、養父:島津勝久
●母:寛庭夫人(島津成久の娘)
●名:
虎寿丸(幼名)、又三郎、三郎左衛門尉、伊作貴久、島津貴久、伯囿、大中公、靖国崇勲彦命
●官名:従五位下、修理大夫、陸奥守、贈従三位など
●正室:肝付兼興の娘、のちに入来院重聡の娘
●子:島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久
●ゆかりの地
 薩摩国 伊作亀丸城
 薩摩国 清水城
 薩摩国 一宇治城
 薩摩国 内城
●略歴:
 ●伊作島津家
1514年 (1歳)
薩摩国守護、島津家の分家である伊作島津家当主、島津忠良の嫡男として、伊作亀丸城で生まれる。
1520年頃 (7歳)
薩州島津家の島津実久が、弱体化していた島津本家の乗っ取りを企てる。
 ●本家相続
1526年 (13歳)
本家、島津忠兼の要請を受け、父の島津忠良が国政を司ることに。
その際、虎寿丸が本家を相続し、鹿児島の清水城に入城。
島津貴久と名乗る。
父、島津忠良が伊作に隠居し日新斎と号す。
 ●島津実久の反乱
虎寿丸の本家相続に不満を持った島津実久が、伊地知家らを糾合し反乱を起こす。
日新斎が、実久方である一宇治城や日置城を攻めて攻略。
島津実久が守護所である清水城に攻め寄せ、本家との養子縁組解消を迫るが、城からの脱出に成功し伊作亀丸城へ逃れる。
 ●本家との敵対
養父の島津忠兼が、島津実久に迫られ貴久との養子縁組を解消し、島津勝久と改名。
これにより本家と敵対関係に。
1533年 (20歳)
勝久方となった桑波田栄景の南郷城を攻め落とす。
日置城主の山田有親が降伏。
 ●守護の逃亡
1535年頃 (22歳)
守護、島津忠兼が不和となった島津実久から鹿児島を攻められ、帖佐へ逃亡。
島津実久が守護を名乗る。
1536年 (23歳)
西寄りの伊作亀丸城から、一宇治城に居城を移す。
 ●攻勢
1539年 (26歳)
加世田別府城の戦で島津実久勢に勝利し、南薩摩を支配下に。
市来鶴丸城の戦で、実久の弟の島津忠辰を討ち取る。
島津実久が降伏。
これを受け、守護に復帰。
1550年 (37歳)
鹿児島に内城を築き、新たな守護所に。
 ●大隈
1554年 (41歳)
大隅国、加治木城主の肝付兼続を攻める。
1555年 (42歳)
敵対した蒲生家の帖佐平佐城を攻め落とす。
1556年 (43歳)
蒲生家の松坂城を攻め落とし、大隅国西部を支配下に。
 ●隠居
1566年 (53歳)
嫡男島津義久に家督を譲り、加世田に隠居。
1568年 (55歳)
父、日新斎が死没。
1571年 (58歳)
加世田で死没。
●死没:1571年7月15日(元亀2年6月23日)(享年58歳)
●レクイエム:
のちに島津家全盛をもたらす、島津四兄弟の父。
父の日新斎とともに、島津中興の祖とされ、貴久は特に島津の英主とも称えられた。
種子島に伝来した鉄砲を、初めて戦に使用したと言われる。