肥後相良家が35代670年守り居した
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(ひとよしじょう)
●場所:熊本県人吉市麓町38
●旧国郡名:肥後国 玉麻郡
●別名:繊月城、三日月城
●種別:平山城
●築城時期:1204年頃(元久元年頃)
●築城背景:
人吉荘の地頭となった相良長頼が、平家の家臣、矢瀬主馬佑の原城跡に築城
●名城:日本100名城  
●主な城主:
相良長頼、相良晴広、相良義頼(義陽)、相良忠房、相良頼房、相良頼寛
●天守:なし
●主な遺構:石垣、土塁、堀
●主な再建物:隅櫓、多聞櫓、続塀
●交通:くま川鉄道湯前線 人吉駅 徒歩約20分
●駐車場:無料駐車場
●徒歩・登山:駐車場~登5分~本丸
<個人評価>
総合◎ 遺構◎ 再建整備◎ 知名度◎ アクセス登5分
●構成:
肥後国南部の人吉盆地を流れる急流、球磨川と、その支流、胸川の合流地点の丘陵に築かれた、石垣造りの平山城。
高所の本丸、下の段の二の丸、その下を鍵型に取り囲むように配された三の丸が城の中心。
これら主郭の西麓には、藩主の居館区域(御館)があり、さらにその先には蔵や重臣たちの屋敷が建ち並んでいた。
球磨川や胸川の水運を効果的に利用するために、水ノ手門をはじめ7つの船着き場が造られた。
これら近世人吉城の南の山が、広大な中世人吉城である原城(上原城、中原城、下原城)。
●現状:
人吉城公園として整備され、石垣、堀などの遺構が残されている。
堀合門そばの石垣は、庇の付いた武者返しとなっている。
また、水ノ手門や堀合門、城塀などが再建されており、見ごたえは充分。
重臣の相良清兵衛の屋敷跡には、人吉城歴史館が建てられている。
(2020年7月の水害により、一部立入制限がされているとの情報あり)
●略歴:
1204年頃
相良長頼が、平家の家臣、矢瀬主馬佑の原城跡に築城。
(中略)
1555年
相良義頼(義陽)が城主に。
1557年
義頼の叔父、上村頼孝が謀反を起こすが、これを平定。
1564年
この頃、島津家からの圧迫を受け始める。
1569年
島津家が薩摩国を平定。
1573年以降
城の大改修が始まる。
1581年
相良義頼(義陽)、島津家に降伏し葦北郡を割譲。
相良義頼(義陽)、島津家の命で阿蘇家を攻めるが討ち死に。(響野原の戦)
義頼の子、相良忠房が城主に。
1585年
相良忠房、疱瘡により死没、弟の相良頼房が城主に。
1587年
豊臣秀吉の九州攻めが始まると、相良家の重臣、深水宗方が秀吉に懇願し所領を安堵される。
1588年
佐々成政が失政により失脚。
加藤清正が熊本城主に。(19万5千石)
1600年
関ヶ原の戦の際、相良頼房ははじめ石田三成の西軍につくが、本戦で西軍が敗北すると、籠っていた大垣城内で東軍に寝返り、戦後本領を安堵される。(初代人吉藩主。2万2千石)
(後略)