上総の中心地、武田家の中世山城
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(まりがやつじょう)
●場所:千葉県木更津市真里谷3361付近
●旧国郡名:上総国 望陀郡
●別名:真里野城
●種別:山城
●築城時期:1456年(康正2年)
●築城背景:
上総武田家の祖となった武田信長が、庁南城とともに築城、嫡男の武田信高を城主とした。
●名城:
●主な城主:
武田信長、武田信高、武田信興(真里谷)、真里谷信勝、真里谷信清、真里谷信隆、真里谷信応
●天守:不明
●主な遺構:堀切、土塁
●主な再建物:  
●交通:小湊鉄道 高滝駅 徒歩約80分
●駐車場:城山神社そばに駐車スペースあり
●徒歩・登山:駐車スペース~徒歩5分~主郭
<個人評価>
総合○ 遺構○ 再建整備△ 知名度△ アクセス歩5分
●構成:
上総国中央やや北部、房総丘陵を利用して築かれた山城。武田川上流域にあたり、南北700m、東西400mの城域を持つ。
主郭部は千畳敷と呼ばれる曲輪で、いくつかの腰曲輪に囲まれており、主郭の西側の尾根に3つの曲輪(二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭)を配した梯郭式の縄張り。
それぞれの曲輪は堀切や自然の谷によって隔てられていた。
大手は三ノ郭の西側に、搦手は千畳敷の南に設けられ土橋が設けられていた。
●現状:
曲輪や堀切、土塁、物見台などの遺構が残るが、主郭部は木更津市立少年自然の家キャンプ場となっており、千畳敷もキャンプファイヤ場となっている。
2009年の訪問時は立ち入ることができたが、現在も可能かは不明。
●略歴:
1456年
上総武田家(真理谷家)の武田信長が築城し、嫡男の武田信高が城主に。
1463年
父で当主の武田信長が隠居し真里谷城に入ると、武田信高は主城である庁南城主に。
それにともない信高の子、武田信興が城主となり、真里谷氏を名乗る。
1511年
真里谷信興、死没。
子の真里谷信勝が城主に。
1518年
真里谷信勝が、古河公方家と対立していた足利義明を小弓公方として擁立。
真里谷信勝、房総管領を名乗る。
1523年
真里谷信勝、死没。
子の真里谷信清(恕鑑)が城主に。
1524年
真里谷信清が、里見家と同盟し、相模国の北条氏綱と対立。
1534年
真里谷信清が,小弓公方、足利義明との不和から憤死。
子の真里谷信隆が一旦は城主となるが、正妻の子である真里谷信応との家督争いが勃発。
真里谷信隆、これまで敵対してきた北条家に帰順。
1537年
家督争いに勝利した真里谷信応が城主に。
これにより、真里谷家は北条家と敵対関係に。
敗北した真里谷信隆は、子の真里谷信政とともに椎津城へ移る。
1538年
第一次国府台合戦で、小弓公方、足利義明に味方した真里谷信応が北条家に敗北。
これにより空白地帯となった上総国に里見義堯が進出。
北条氏綱を後ろ盾とした、椎津城主の真里谷信隆が再び真里谷家当主に。
これにより、真里谷家の拠点は椎津城へ移る。
1552年
里見家に攻められ、真里谷信応が自害。
子の真里谷信高(清雲)が城主に。
1590年
豊臣秀吉の小田原城征伐で、城主の真里谷信高(清雲)は退城し、真里谷家が滅亡。