固い守りに信長が攻略をあきらめた
isenagasimaseme-1

(いせながしませめ)
●西暦:1571年
●和暦:元亀2年5月
●関連する場所:
 伊勢国 願証寺
 伊勢国 伊勢長島城
 尾張国 小木江城
●概要:
 ●石山合戦の始まり
1570年、石山本願寺住職の顕如が織田信長に敵対し、各地の一向衆徒に対し信長への抗戦を呼びかけた。(石山合戦)
 ●伊勢長島
伊勢国北東部の木曽川、長良川、揖斐川の作るデルタ地帯にある長島は、願証寺を中心とした一揆勢力約10万の拠点であり、尾張国、伊勢国、美濃国方面の一向宗徒を統括していた。
信長は一揆勢の監視のために、尾張国の小木江城に弟の織田信興を入れていた。
 ●願証寺蜂起
織田信長が近江国において、延暦寺に籠って動かない浅井、朝倉軍や本願寺などへの対応に苦戦していたことから、願証寺は一斉蜂起し小木江城に攻め入り織田信興を自害に追い込む。
 ●信長来る
12月になり、朝廷の斡旋を受けてやっと浅井、朝倉と和睦に成功した信長は、岐阜に戻り戦備を整え、翌年(1571年)5月、5万の大軍で伊勢長島攻めに向かった。
一揆勢は、本城である伊勢長島城を中心に、デルタ地帯に点在する砦や小木江城に籠っていた。
信長は、総勢を3隊に分け、自身の率いる本隊は津島に本陣を置き、柴田勝家隊は西から、佐久間信盛隊は東の小木江から進攻するが、複雑に流れる川が天然の要害となっていることもあり攻めあぐね、逆にゲリラ戦法を受け苦戦、結局何の効果もないまま数日で撤兵を余儀なくされた。
 ●信長退却
退却し始めた織田勢は一揆勢の追撃を受け、特に柴田勝家隊は山と揖斐川に挟まれた隘路を一列で移動するしかなく、勝家自身が殿軍(しんがり)となって退却するところ負傷した。
その後、殿軍を交代した氏家ト全が討たれるなどの大きな被害を受けた。
信長は2年後に再度伊勢長島攻めを敢行する。(伊勢長島攻め(第二次))