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2023年のNHK大河ドラマは、松本潤主演の「どうする家康」ですね。
少し気が早いのですが、家康ゆかりの地を追いながら、その生涯や主要な出来事を振り返ってみたいと思います。

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・岡崎城(三河国)
愛知県岡崎市康生町
(1歳~6歳:1542年~1547年)

まずは生誕の地です。

三河国、矢作川と菅生川の合流地点に築かれた平城です。
3重3階の望楼型複合連結式天守が、再建されています。
家康の産湯に使ったとされる井戸が残り、開運スポットにもなっています。

日本100名城。

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・万松寺・古渡城・熱田羽城(尾張国)
(6歳~7歳:1547年~1548年)

家康は6歳にして、織田信長の父である織田信秀の人質となりました。本当は駿河国の今川家の人質として送られる予定でしたが、田原城の戸田康光の裏切りによって尾張国の織田家に送られました。
家康は当地で、子供時代の信長にも対面したともいわれます。
留め置かれた場所については、主に以下3つの説があります。

・万松寺:愛知県名古屋市中区大須(こちらは未訪問です)
信秀が建立した織田家の菩提寺です。
のちに当寺で行われる信秀の葬儀の際、信長が信秀の位牌に抹香を投げつけたといわれます。

・古渡城:愛知県名古屋市中区橘
信秀が今川家に備えるために築き、居城としていました。
それまで居城としていた那古屋城は、嫡男である信長に譲ったといわれます。
現在は、浄土真宗本願寺派の名古屋別院となっています。

・熱田羽城:愛知県名古屋市熱田区伝馬(こちらも未訪問です)
織田家家臣、加藤順盛(図書助)の居城です。
一時的に幽閉されていた城、という説もあります。
現在は住宅地となっており、城址跡に案内板や石碑があります。

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・駿府館(駿河国)
静岡県静岡市葵区駿府城公園
(7歳~19歳:1548年~1560年)

駿河国の太守、今川家の人質として長年暮らした場所です。
前出のように家康ははじめ織田信秀の人質となっていましたが、信長の庶兄、織田信広との人質交換により今川家の人質となりました。
この駿府館は、のちに家康の隠居城である駿府城となります。(後出)

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・大高城(尾張国)
名古屋市緑区城山(19歳:1560年)

今川義元の上洛戦(尾張平定戦との説も)の際、家康が先鋒を命じられ兵糧搬入に成功したのがこの城です。
この搬入作戦が成功しなければ、義元も尾張国侵攻を躊躇したかも知れません。

城跡は小高い公園となっており、土塁、空堀、土橋などが残ります。
駐車場が付近にないので(恐らく今も)、訪問には注意が必要です。

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・岡崎城(三河国)
(再出)
(19歳~29歳:1560年~1570年)

桶狭間の戦で義元が討たれあと、家康は駿府には戻らず、生誕の地で居城であるこの岡崎城に戻りました。家臣一同、大喜びしたそうです。

この地で家康は、今川家からの独立を目指しました。

日本100名城。

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・掛川城(遠江国)
静岡県掛川市掛川
(28歳:1569年)

甲斐国の武田信玄と同盟した家康は、義元の子の今川氏真が逃げ込んでいた、この遠江国の掛川城を攻めました。
丘の上の再建天守は、新幹線からもよく見えます。

関ヶ原の戦の直前、「この城を家康殿にお渡しする」と言ったことなどが賞賛され、戦後土佐国一国を拝領した山内一豊の居城だったことでも有名です。俗にいう「出世城」のひとつです。

日本100名城。

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・浜松城(遠江国)
静岡県浜松市中区元城町
(29歳~44歳:1570年~1585年)

家康は武田信玄から一方的に同盟を破棄され、敵対関係となっていました。
信玄は天下を取るために、どうしても海に出たいと思っていたようで、狙いを付けたのが駿河国や遠江国、そして三河国です。
家康は信玄対策として、居城を三河国から東の遠江国へ移しました。それが浜松城です。

三方ヶ原台地の南東斜面に築かれた平山城で、野面積みの石垣が残ります。
家康の像もあります。

続日本100名城。

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・姉川古戦場(近江国)
滋賀県長浜市野村町
(29歳:1570年)

同盟者、信長への援軍として駆けつけ、近江国の浅井家、越前国の朝倉家と戦いました。
諸説あるようですが、総勢5万を超える兵がぶつかったとも言われます。
緒戦は信長軍が劣勢でしたが、家康軍の加勢を受けて大逆転勝利したと伝わります。

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・三方ヶ原古戦場(三方原古戦場碑)(遠江国)
静岡県浜松市北区根洗町
(31歳:1572年)

大敵、武田信玄が3万の兵を率いて上洛戦を開始しました。

天竜川沿いを南下して来た信玄の本軍2万2千を、家康はこの遠江国三方ヶ原で迎え撃とうとしましたが大敗し、浜松城へ逃げ戻りました。

その後、武田勢は浜松城には目もくれず西へ向かい、三河国野田城まで進軍しますが、そこで停止しました。信玄が死没したためです。信玄の死はしばらく秘匿されました。
信玄の死により、家康は滅亡を免れました。

古戦場の碑が残ります。

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・長篠古戦場(長篠の戦い決戦場)(三河国)
愛知県新城市八束穂
(34歳:1575年)

奥三河の古戦場です。

信玄死後も、その後継者である武田勝頼の攻勢を受けていましたが、当地で家康は信長とともに馬防柵や鉄砲の3弾撃ちでなどで(異説あり)武田勢に大勝し、長篠城や奥三河の地を守り切りました。
武田勢はこの一連の戦いで1万5千の内1万が損害を受け、滅亡のきっかけとなってしまいました。

連吾川そばに馬防柵が再建されています。
近くには攻城戦が展開されていた長篠城(日本100名城)があります。

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・高天神城(遠江国)
静岡県掛川市上土方嶺向
(40歳:1581年)

遠江国の要衝です。

武田家に7年間奪われていましたが、長篠の戦で勝利した勢いのまま家康が奪還に成功、遠江国の支配権を取り戻しました。

ふたつの峰(東峰と南峰)を利用した、難攻不落の山城です。

続日本100名城。

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・安土城(近江国)
滋賀県近江八幡市下豊浦6371
(41歳:1582年)

地上6階地下1階の巨大な天守や、城下の楽市・楽座で知られる、織田信長最後の居城です。

武田家を滅亡に追い込んだ功績などから、この城に招かれた家康は、信長から長年の苦労をねぎらってもらいました。ちなみにその時の饗応の接待役は明智光秀でした。

遺構は石垣や天守台などですが、天守の再建も検討されているようで、今後が楽しみです。
新幹線からもよく見えます。

日本100名城。

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・堺(和泉国)
大阪府堺市
(41歳:1582年)

畿内で最も重要だった港町です。

自治都市としても有名で、貿易により財を成した豪商たちによって運営されていました。
南北3km東西1kmに渡り、幅10mもの水堀を巡らせて(環濠)いたといいます。
ただその環濠は、後に豊臣秀吉によって埋め立てられてしまいます。

安土城で信長の饗応を受けたあと家康は、34名の側近を連れこの地に観光に訪れていました。
そこに突然、「信長死す」(本能寺の変)の一報が飛び込んできました。さぞや仰天したことでしょう。(実は事前に知っていたという説も・・・)

(写真は、茶人、千利休の屋敷跡です)

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・新府城(甲斐国)
山梨県韮崎市中田町中條
(41歳:1582年)

甲斐国、釜無川を見下ろす七里岩の上の平山城です。

信玄の跡継ぎの武田勝頼が、防備に不安のある甲府の躑躅ヶ崎館に替わる居城して築城しました。「新府」とは新しい府中(国の中心地)という意味です。

武田家滅亡後、信長の支配下となった甲斐国、信濃国の領有をめぐって、北条家や上杉家と争った家康がここに本陣を置きました。(天正壬午の乱)

土塁、空堀、三日月堀などが残ります。

続日本100名城。

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・小牧山城(尾張国)
愛知県小牧市堀の内
(43歳:1584年)

濃尾平野にポツンとある、小牧山にあります。
信長が美濃国の斎藤家攻略のために、一時居城としていました。

織田家筆頭たることを目論んだ豊臣秀吉との争い(小牧・長久手の戦)の際、家康はここに本陣を構えました。

名神高速を走っていると、小牧北ICあたりで山頂の模擬天守が目に飛び込んできます。

石垣、土塁などが残ります。

続日本100名城。

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・大坂城(摂津国)
大阪府大阪市中央区大阪城
(45歳:1586年)

一向宗の本拠、石山本願寺の跡地に、秀吉が築いた摂津国の巨大な城です。

家康は、渋々ですが秀吉を天下人と認め、この大坂城に伺候し臣下につきました。
さぞや悔しかったことでしょう。かつての同盟者、信長の部将に過ぎなかった秀吉にひざまつくことになったわけですから・・・

多聞櫓、千貫櫓、石垣、堀などが残り、5重6階天守が再建されています。

日本100名城。

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・小田原城(相模国)
神奈川県小田原市城内
(49歳:1590年)

北条早雲が大森家から奪った(異説あり)城として知られます。
全長9km(12㎞とも)に達する土塁と空堀で、城下町ごと囲む総構え(城下町の周囲にも堀や土塁を築く)の城です。

秀吉が決断した小田原征伐(北条攻め)には、家康も多くの家臣を引き連れ参陣しました。
家康はそれまで北条家と同盟関係にありましたが、この直前に断交しました。

小田原駅からもよく見えます。
石垣、土塁、堀などが残り、北条家時代の三の丸跡に天守が、そのほかにも櫓や城門、出丸などが再建されています。

日本100名城。

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・石垣山一夜城(相模国)
神奈川県小田原市早川
(49歳:1590年)

秀吉が小田原征伐の際に築いた山城で、出来上がってから周囲の樹々を切り倒したため、「一夜にして城が出現した」と小田原では大騒ぎになったといいます。そのため一夜城と呼ばれます。

この地で家康は秀吉から、北条家を滅ぼしたあとの関東への国替えを命じられたといわれます。

石垣、堀、井戸などが残ります。
石垣の多くは崩壊していますので、見学には注意が必要です。

続日本100名城。

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・江戸城(武蔵国)
東京都千代田区千代田
(49歳~66歳:1590年~1607年)

関東への国替えを命じられた家康は、武蔵国にあった小さな江戸城を居城としました。
1457年(長禄元年)に太田道灌が築いた城でした。
家康が入城した当時は、城のすぐ南に日比谷の入り江が入り込んでいました。

日本100名城。

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・名護屋城(肥前国)
佐賀県唐津市鎮西町名護屋
(51歳~57歳:1592年~1598年)

朝鮮出兵の拠点として、秀吉が築きました。

家康は朝鮮渡海はせず、この名護屋城で秀吉のサポートを行いました。

広大な城域には石垣、土塁、空堀などが残ります。
家康の陣跡は、主郭の北東約500mの場所にあります。(なごや保育園のそばです)

日本100名城。

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・伏見城(山城国)
京都府京都市伏見区桃山町古城山
(58歳:1599年)

秀吉が政務を行うために、京都の郊外に築きました。

1598年(慶長3年)に秀吉が死没すると、まだ幼い豊臣秀頼を助けて政務を行うことになっていた家康はこの城に入りますが、その後すぐに大坂城へ移りました。

のちに起こる関ヶ原の戦の直前、この城の城代を任された家康の老臣、鳥居元忠は、西軍に攻められるも一歩も引かず、最期は城を枕に討ち死にしました。

徳善丸跡に、5重6階の模擬天守と3重4階の模擬小天守が再建(遊園地の一部として)されていますが、遊園地の閉鎖や耐震問題などにより、立ち入り禁止です。

京阪電車の車窓からも見えます。京都駅付近からも見えます。

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大坂城(摂津国)
(再出)
(58歳~59歳:1599年~1600年)

伏見城から大坂城西の丸へ移った家康は、この西の丸に本丸とは別の天守を築きました。
家康は、天守をあげることで、天下を目指すことを宣言しようとしたと思われます。

秀吉の遺児、秀頼を中心とした豊臣家がそのまま天下を治めるとみられていましたが、家中の武断派と官吏派の抗争などにより、まとまりを欠いていました。

家康は巧みに動き回り、多くの大名を味方に取り込んでいきました。これが後の関ヶ原の戦へ勝利に繋がります。

現代の大坂城(徳川大坂城)は、秀吉の大坂城(豊臣大坂城)の跡に、江戸時代になってから建設されたものです。また天守は昭和6年(1931年)に再建されたものです。

日本100名城。

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関ヶ原古戦場(美濃国)
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
(59歳:1600年)

謀反の疑いのある、陸奥国会津の上杉景勝征伐へ向かった家康ですが、途上の下野国小山で、石田三成の元に集結した毛利家、島津家、上杉家、長宗我部家などを中心とした西軍が旗揚げをしたこと知りました。家康は同道していたほとんどの大名たちを味方につけることに成功し、反転し上方へ向かうことにしました。

そして美濃国と近江国の国境付近の当地で、鶴翼の陣(鶴が翼を広げるごとく左右から囲い込むような陣形)で待ち構えていた西軍と激突しました。

両軍合わせ20万ともいわれる天下分け目の大合戦となりましたが、家康はからくも勝利し天下人となることが確定しました。

家康が初めに陣を構えた桃配山は、国道21号線沿いにあります。

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・江戸城(武蔵国)
東京都千代田区千代田
(49歳~66歳:1590年~1607年)
(再出)

関ヶ原の戦で勝利した家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任じられました。

家康は江戸城を天下普請で大改修しました。
江戸城は最終的には小田原城にならった総構えとなり、36もの見附(城門)を持つ大城郭として完成します。

日本100名城。

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駿府城(駿河国)
(旧駿府館・再出)
(66歳:1607年)

子の秀忠に将軍職を譲った家康が隠居所に選んだのは、7歳~19歳までほぼ人質として住んだ駿府でした。

駿府城は、かつての今川家の館あとに築城されたものです。

家康は当地で大御所として君臨、事実上の天下人として政務を行いました。

駿府公園となっており、石垣、堀などが残ります。また櫓や城門が再建されています。

日本100名城。

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二条城(山城国)
京都府京都市中京区二条城町
(70歳:1611年)

家康が天下に号令するために、全国の大名に命じて京都二条に築城させた城です。

70歳になっていた大御所家康は、ここで19歳の若者に成長していた豊臣秀頼に対面しました。
秀頼の立派さ、豊臣家を慕う諸大名や領民の存在の大きさなどから、天下静謐のために豊臣家を滅亡させる決心をしたと想像されます。

国宝の二の丸御殿のほか、本丸御殿、城門、石垣、堀などが残ります。

日本100名城。

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大坂城(摂津国)
(再出)

(73~74歳:1614年~1615年)

豊臣家を滅ぼす決意をした家康は、全国の大名を従わせ大坂城を二度に渡り攻めました。(大坂冬の陣・大坂夏の陣)
西軍の真田幸村らの強い抵抗を受け一時苦戦しましたが、夏の陣において大坂城を落城させ、豊臣家を滅亡させました。

ちなみに「大坂」が「大阪」と表記されるようになるのは、ずっと時代を下った幕末の頃で、「土」に「反る=返る=死ぬ」は縁起が良くないため、というのがその理由のようです。

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久能山東照宮(駿河国)
静岡県静岡市駿河区根古屋
(墓所)

75歳で他界した家康は神格化され東照大権現となり、その遺言により当地に葬られました。
翌年には、将軍秀忠により日光東照宮へ改葬されます。

家康の死因ですが、胃がん説、鯛の天ぷらによる食中毒説があります。

標高216mに位置します。当地は元々、武田家または今川家が築いた久能山城(久能城)にあたります。

徒歩での登山も可能ですが、ロープウェイでの登頂も可能です。

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(終)

(星野遊呆)

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