大谷吉継とともに散った美濃垂井城主
hiaratuka-tamehiro


(ひらつかためひろ)
●誕生:????年(永正??年)
●生誕地:美濃国?  
●父:平塚入道無心
●母:  
●名:孫九郎、藤蔵、為広
●官名:従五位下、因幡守
●正妻:
●子:平塚為景、平塚庄兵衛[  
●ゆかりの地:
 美濃国 垂井城
●略歴:
 ●美濃
????年 (1歳)
美濃国不破郡の武士、平塚入道無心の子として生まれる。
(中略)
 ●秀吉家臣
????年 (??歳)
羽柴秀吉(豊臣)に仕える。(詳細不明)
 ●浪人・復帰
????年 (??歳)
秀吉の勘気を被り浪人となり、関東へ。
1577年 (??歳)
秀吉の播磨国佐用城攻めの際、黒田官兵衛に陣借りし、敵将の福原助就兄弟を討つなど貢献。
これを受け、秀吉の家臣に復帰。
その後、秀吉の黄母衣衆に。
1583年 (??歳)
小牧・長久手の戦に参陣。
1590年 (??歳)
小田原征伐に参陣。
1592年~ (??歳)
文禄の役・弘安の役では、名護屋城に入城。
1595年 (??歳)
これまでの功により8千石を拝領。
1598年 (??歳)
醍醐の花見では、秀吉の護衛を務める。
豊臣秀吉、死没。
その後も豊臣秀頼に仕える。
 ●垂井城主・大名
1600年 (??歳)
1万2千石を拝領し、美濃国垂井城主に。
 ●三成からの誘い
徳川家康に従い上杉景勝の会津攻めへ向かう直前、大谷吉継も一時滞在していた垂井城に、石田三成の使者が来城、西軍に味方するよう要請される。
大谷吉継とともに佐和山城へ赴き、三成に挙兵を止めるよう諫言するが果たせず.
大谷吉継とともに西軍へつく。
東軍方の伏見城攻めに参陣。
 ●関ヶ原の戦
関ヶ原の戦の際は、大谷吉継の陣そばの藤川台に布陣。
病の吉継に替り大谷隊の指揮も任され、藤堂高虎や京極高知らと交戦。
東軍へ寝返った小早川秀秋隊を数度撃退するが、同じく寝返った脇坂安治らの攻勢を受け討ち死に。
●死没:1600年10月21日(慶長5年9月15日)(享年??歳)
●レクイエム:
辞世は大谷吉継へ送ったといわれえる、「名のために捨つる命は惜しからじつひにとまらぬ浮世と思へば」
意味は「名誉のために殉職するのであれば、命も惜しくない。永遠に生きられるこの世ではないのだから」といったところであろうか。

これに対する吉継からの返歌が辞世としても知られる下記だが、為広は先に討ち死にしていたと推定されるため、届いていない可能性が高いようだ。

「契りあらば六の巷にまてしばしおくれ先立つ事はありとも」
意味は「もしも約束してくれるのなら、あの世への入り口である「六の巷」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の迷いの世界)で少し待っていてほしい。あなたより先になるか後になるかわからないが、自分もそちらへ向かうから」といったところであろうか。

平塚家は相模国の三浦一族で、平塚郷を拝領したのが始まり。

(星野遊呆)